カテゴリー別アーカイブ: 【読書感想文】

【邪魅の雫】

まだ読んでない方のために、
できるだけ、ネタばれにはならないようにするつもりだけれど、
ばれちゃったら御免w

9月の末に買ってやっと読み終えたw
817ページ。厚みにして4.4cm。1ページの最大文字数は828文字。
京極夏彦の作品はまいど、とんでもない文少量で、
読む速度の遅い私でとしては、かなり疲れるw
いわゆるミステリーなわけだが、
毎度この方の作品は本も内容も重い。

が邪魅の雫はちょっと、軽いというか、
文字数の割に幅がない気がした。
それに、この人の作品を読むときに一番期待する、
知が少なかった気がする。気のせいかもだけど。
この人の作品を読んで合点のいった事項も少なからずあるので、
そこのところは残念。

正直、かなり最初の方で、話の全容はわかってしまえる。
勘のいい人だと、その人の名前が出た瞬間わかってしまうかもw

あとはただ、コロンボとか古畑任三郎みたく、
どうやって、追い詰めていくかってところだね。
伏線が多すぎて、先が読めると言うか、
警察の動きが空回りしているのが、わかりすぎて、
真相を知らされたときの意外性が希薄だったいう印象。
それと、榎木津の活躍が少ないのも寂しいw

ただ、やっぱり最後の京極堂の登場からの彼の弁舌は、
周到で面白い。
この京極夏彦のシリーズは、かなり初期の段階で
犯人とか事情がわかってしまえるし、
ラストが「は?」とか「そりゃないよ、とほほ」
な結末だったりするんだけど、
もうほとんど京極堂の弁舌が読みたくて、
読んでるみたいなもんだからねw


【今日の作品】【邪魅の雫】
【今日の部員】木戸 福三郎さん

【ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン】

色々と資料を検索してみて、思ったことがある。

一説に、リンカーンは奴隷解放にそれほど積極的でなかったとする説がある。就任演説では奴隷解放の意図を否定してみたり、南北戦争中に、奴隷解放を唄ったのは、南部に対してのみで、北部のそれに関しては手をつけなかったからだ。というのが根拠だ。南部の奴隷を離脱させることと、それによる戦意削ぎが狙いだった。という論調だ。

しかし、彼のそれ前後の行動を見ればどうだろうか?

詭弁という言葉を人はよく政治家に当てはめる。聞こえのいいことを口にするが票集めのための詭弁だ。という感じで。

さて、当のリンカーンが奴隷解放に関して積極的でなく、取ってつけたように奴隷解放を唄いだしたとするなら、彼が大統領になる以前、彼の残した言葉に、多く奴隷解放にかんするものが残っているのはなぜだろうか?

大統領になって心変わりした?

では心変わりしたのに、また結局終戦後、奴隷解放を合衆国全体に適応したのは、どんな心変わり?

こう考えるとむしろ、奴隷解放を一時的に懸案としないとしたことのほうが、政治的な詭弁だったと言うことになるのではないか?

彼ははじめから、奴隷解放の意思があり、しかし、それを強く押し出したのでは、混乱が大きいと判断したゆへに、自説を押し殺したと見るほうが自然ではないかと思う。  何しろ彼はその自説ゆへに何度も落選の憂き目を見ているのだ。

上院議員選挙の折、彼はダグラスという人物との一騎打ちの結果落選した。  そのときリンカーンは「もし奴隷制度が間違っていないなら、間違っているものなど何もないのだ」と言い残している。

また、上院議員時代、何度も、奴隷制度を非難する演説を行っている。  彼は、「押してもダメなら引いてみな」を実践できる人だったということだ。

実に興味深い。

ここに一冊の本を紹介したい。

ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン

クリスチャン視点の伝記というのは、巷にものすごく少ないように思うのですな。特に、日本では。

マザーテレサとか、もうそのまんまな人物に関しては、確かにいくつか出てるけど。

ロックフェラーや、リンカーンなど、キリスト教の信仰を持って、世に名をはせた人の人物伝を、特に日本では、ほとんどその宗教要素を抜き取って、紹介されることが、多いように思うっすな。そういえば、北海道の札幌農学校の教頭となったクラーク博士も日本では、クリスチャン色はぬぐわれてしまっているし、ヒップホップアーティストのバーバルもクリスチャンなのだが、それを知っているファンはどれだけいるだろうか?

そんな方法って、本当に本人の真相に迫れるものだろうか?といつも思う。

宗教的考察を抜きにした歴史の探求や、人物の掘り下げは、きっと正しいゴールにはつけないという気がする。

宗教とは違うが、奴隷制度は現代でこそ、人権蹂躙であり、倫理的に問題があることとされてるけど、古代においては、ごく当たり前の価値観だった。ということを抜きにして、古代の人の思考を考えるのは、間違った結果にしか、たどり着けないと思うのでですな。 それと同じように、宗教もまた、読み手がその宗教を信じるかどうかではなくて、実際にその人物がどうゆう思考経路でモノを考え、行動したかを知るためには、無視してはいけないファクターなのですよ。

そういった意味で、この「小牧者出版」は非常に興味深い、意義のある書籍の出版をしたと思う。 完全に牧師からの視点で書かれた内容ゆへ、キリスト教を理解していない方には、多少読みにくいかもしれない。しかし、信仰にある人にはかなりお勧めできる。 なぜなら、リンカーンの行動のすべてが、信仰に裏打ちされているということ、そして、それをして、なお困難があるということを正直に教えてくれているからだ。

聖書にはある。信仰に熱い人々が禍に直面する場面が。しかしその禍を彼らは恐れなかった。確信があるからだ。そして神様はその確信に報いて、彼らをお救いくださった。 神様は、リンカーンに試練を通して、多くのことを学ばせた。その学びが、彼を大統領にまで押し上げ、アメリカの統一と奴隷開放という実を結ばせた。 逆をいえば、彼に信仰という確信がなければ、そこまでの偉業をなそうという意思を支えるものはなかったとも言える。 そうなれば、アメリカは歴史に見る大転換を少なくともその時期には体験できなかっただろう。

今回の一冊は、そのことを教えてくれた貴重な一冊だった。

リンカーンが、三男のウォーリー(ウィリアム)を病気で失ったときに「だが、お父さんはお前に会いたくてたまらない」と言っている。

信仰の人、偉大な大統領。その人もやはり我々と同じ人なのだと、思う言葉である。そして、これは、等身大の私たちにも、私たちもリンカーンになれるのだということを教えてくれているのではなかろうか?


【今日の作品】【ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン】
【今日の部員】木戸 福三郎さん

【これからの「正義」の話をしよう】(後)

アファーマティブアクションなるものがる。

漢字で差別是正措置とかになるんじゃないかと思われるんだけど、
この言い方は実態を正確に表していない。
ある意味、被差別者優遇処置とでもいおうか。

たとえば、ある学校に受験した人種が、多様であったのにもかかわらず、
合格点数に達していた者が白人に集中していた場合、僅差で点数は劣っていても、
白人よりも、有色人種を入学させるように調整する。という感じ。

定員が100人で、有色人種が101番目の成績だったなどの場合、
100人目の白人の子は不合格として、
101人目の有色人種を繰り上げ合格させるというわけだ。

僕は、かねがね、差別は永久になくならない。という持論なわけだが、
だから、「差別を無くそう」なんて言い方には、僕はまったく賛同できないし、
そうゆう言い方こそが「差別」なんだと思っているわけだ。

だから、差別はなくすものではなくうまく付き合うものだと思っている。
そういった意味で、この、アファーマティブアクションはひとつの試みとして、
いいのではないかと思ったりもする。

もちろん、「すべての人によい方法」なんて存在しないわけで、
100人目で合格できたと喜んだその子やその親はぬか喜びを
させられてしまったわけだ。

別に有色人種を差別したわけでも、ズルをしたわけでもないのに。

これは、公平といえるのか?と問えば、
絶対に公平だなんていえない。と僕は思う。

日本にも、女性の職行機会均等や、部落差別、在日差別などが存在するが、
興味深いことに、このアファーマティブアクションを実施することができない。
なぜならば、憲法14条の法の下の平等に抵触する恐れがあるからだ。
確かに、被差別民を被差別民だからというので、制度に優遇を加えれば、
これは逆差別になってしまう。

「歓迎されるべき差別」なんて、
近くしかみえない望遠鏡みたいで、嵌りが悪すぎる。

アファーマティブアクションの必要性の無さについて、
ギリシャのあの有名なアリストテレスは、
人は埋まれながらにその役割を持っているという考え方を示しているそうだ。

まあ、今でもよく言われる、
人の生きる意味について悩む人に「キミにはキミの役割があるんだ!」みたいな
テレビの決め台詞的な、かっこいい意味で言っているわけではない。残念ながらね。

アリストテレスは、政治をする者は政治をする者として、
商売をする者は商売をする者として、
奴隷は奴隷をする者として初めからそのように産まれる。と考えたわけだ。
だから、奴隷に生まれたものが政治の勉強をするのは愚かだし、
商売人が政治をしたらろくなことにはならない。と思ったようだね。

そんなアリストテレスのいたアテネは、
アテネの血を継承するものでない限り、アテネ人として認めなかったとされている。

アリストテレス自身は、プラトンの主催するアテネで学び、
一端はアテネを離れたが、数年後にふたたびアテネに戻り、学校を開いている。
それでも誰も彼のことはマケドニア人としてあつかい、
アテネ人としては、誰も評価しなかった。

彼は王の家庭教師まで勤めた男なのにである。
彼は自分のその扱われ方を当然と思えたのだろうか?

地勢状の問題はあったとはいえるが、民主主義の祖となったアテネは、
それでも、後続のローマ帝国ほどには、繁栄も継続もできなかったのは、
よそ者を受け入れる度量の有り無しに大きく影響されたのだと、
『ローマ人の物語』の著者、塩野七生は主張している。

ローマは、奴隷を奴隷のままでいさせることに執着しなかったし、
純潔にも執着しなかった。
だから、ケルト人でもゲルマン人でもマケドニア人でも、
皇帝になることができたのだ。
むしろ、ローマ帝国の消滅は蛮族の侵略というよりも、
民主主義的開放性を捨てて、宗教的閉鎖性を国の政に取り入れたがゆへだった。

アファーマティブアクションが、
このローマ帝国の解放性と同じものだったとはいえない。
ただいずれにせよ、閉じた社会は思わぬ方向から風穴を開けられたときに、
対応できる柔軟性を持てない。多様性による衝撃のクッションを持たないからだ。

ルールという出発点を、それをゴールだと勘違いしたとき、
自分で自分の首を絞める結果を招くという話が、
第8章のゴルフカートの例題で出てくる。

ゴルファーはそれがプロであるがためにカートを使うことをルール違反だと主張したが、なぜルール違反なのかの具体的な理由を証明できないのでは、
ルールだからという理由に拘束されているだけである。
逆に、ルールがそれをOKした場合の彼らの主張は、
笛を吹いたのに誰も聞いてくれていなかったほどの恥ずかしさになる。

ちなみに、イギリスの超有名な理論物理学者ホーキング博士は、
重度の筋萎縮性側索硬化症によって、自分の声で話すことができなくなっている。
よって、彼の会話はいつも機械を通すことになるわけだが、
だから彼がどんなにすばらしい研究結果を発表しても、
それは機械のお陰だとと言う人はいまい。

アファーマティブアクションが一定の才能に対して、
それを阻害する可能性は否定できない。
100番目に合格した白人の方が、後により多くの貢献を果たすかもしれなかったし、
101番目だったが合格した人が、後に重大で深刻な犯罪を起こさないとも限らない。
とかいう可能性をいい出したら、まさに切が無い。

マイノリティーが劣る存在であるとか、
男性が女性よりも能力面で勝るなんてのは、単純に決め付けて、
「させてこなかったから」に過ぎない。と僕は思っている。

マジョリティーにだって、つまらない奴は多いし、
男にだって運転の下手な奴はいくらでもいる。
チャンスは差別してでもあったほうがいいと僕は思う。

第9章では、コミュニティ内における個人のあり方について、考察がされている。
過去に起こした戦争やその渦中で行った蛮行に対して、
謝罪や補償を後代の人々がするべきか?という日本人にしてみれば、
むずむずするくらい直球な問題定義でもあるわなぁ。

ある韓国人と日本人の知人との会話を聞いたことがある。

日本人が過去の戦争で朝鮮半島にした所業や慰安婦問題に関して、
日本人の彼が謝罪めいたことを言うと、韓国人の彼は
「それは君がしたことじゃない。昔の人がしたことで君が謝る必要はない。」
と言う内容だ。

これは、韓国人の中では決して多数派ではない意見だとは思う。
こうゆうのをリベラリストというのだろうけど、
少なくとも儒教心の強い韓国がリベラルな国だとは韓国擁護派の僕としても、
言うことはできない。

日本でもしかりだ。
ある犯罪者の家族は、その家族であったというだけで、
被害者への謝罪を要求され、これまでどおりの生活をおくることさへ、否定される。
それが日本の今の現状だからだ。

僕の目にはそれは正しいことには見えない。

罪は、それを行った者のみが裁かれるべきで、
コミュニティーが一緒だったというだけで、同罪に処されるなんてのは、
過ぎた処断にしか思えない。

大学や高校でのたった一人の部員の不祥事が、
部全体の責任とされるという処置も納得できない。
そもそも、その生徒はその部の一員だっただけでなく、その学校の一員でもあったのだ。
どうしても処罰が必要なら学校ごと処罰すべきだろう。

そもそも人は、自分の意思で親を選択し、
自由に自分の産まれたい時に産まれてきたわけではない。
存在しない自分にそんな意思は持てるはずがないからだ。

逆を言えば、自分を生んでくれるはずの親が、出会わなければ、
自分は存在せず、出会っても結婚や子供を望まなければ、
自分は産まれてくることからできなかったことになる。
産む方の親も選択肢が無いことでは代わりが無い。

将来どんな大人になるかは(もちろん親の影響も無いとはいわないが)、
その当てが思い道理にできるなんてのは、ごくまれな、それこそたまたまな話だ。
好き好んで、病弱な子を産む親はいないし、
生まれてくる子が億万長者になることを知って産むなんてこともありえない。

自分の選ばなかった、時、場所、方法で生まれてきた僕に、
過去の人の責任までを負えというのは酷だ。

ただし、これから起こるであろうコミュニティ内の
誰かが起こすかもしれない過失について、それを知っていて放置すれば、
同罪とまでは言わなくとも、ほう助には当たるかもしれない。

そういった意味で、原発の再稼動を反対したり、TPPに反対するという行動は、
その結果が正しい方向に向かうかどうかは別にしても、
コミュニティーの中にいるものとしての
責任を果たそうと努力しているとは言えるのかもしれない。

その意味で、9章の中ほどで紹介されている、
アラスデア・マッキンタイアの『我々は物語の探求としての人生を生きる』という
考え方は、面白いと思った。

我々は、それぞれがある物語の中に放り込まれる主人公であり、
筋書きの無いその物語は、主人公とその周りの脇役の行動如何で、変わっていく。
ただし、物語は物語に放り込まれる、その以前からすで進行していたのだから、
その自分の産まれる前の筋書きを変更することはできない。
だからその筋書きを前提に、自分の役を自分なりに演じる。

どこか、聖書的なにおいを感じる考え方だけど、
賛同できる部分は多いように思える。

「人生は舞台だ」と言ったのが誰だったかは知らないが、
正直、そんな軽いものか?という疑問はあった。
筋書きが出来上がっており、展開も結末も演じる本人から知っている。
そんな便利な状況、別な見方をすればそんな超つまらない生き方を人生だというのなら、
悔しさや悲しさであふれる涙や、腹から笑えるはずの出来事は全部、
空虚なモノでしかなくなる。

マッキンタイアのいう物語は、筋書きではなく、
これまでに紡がれた物語に出番を得た自分が、そこからさらに役を選択する。
というものだ。

もちろん、制限された選択肢しかないが、
その選択肢の向こうにある次の選択肢を知ることはない、
予定されていない未来を演じるという意味でなら、筋書きは無いのだから、
エキサイティングでさへある。
ヒーローになるか、ヒールになるかは、その選択によるわけだ。

ただし、僕はここにもひとつ疑問を感じる。
マッキンタイアは、その選択肢をどれだけの広さや数、概念で考えたのだろう?

ネット上を見るとよく、生活保護を受ける人や、ニートに対して、
努力が足りない。と言う言葉を投げかける。
働きたくない者が働かずに自分の生活を困窮させるのは自業自得だが、
自分のおかれた環境から脱出するすべを、何処にも見出せない人というのもいる。

僕はこれを、「回転寿司理論」と名付けたいと思うw

回転寿司といっても、
中央に板さんがいてその周りをすしが流れるタイプじゃなくて、
厨房と客室が分離されているタイプのそれだ。
今は何処でも当たり前になっている、注文用端末や、
呼んだら来てくれる店員もいない店だと仮定してほしい。

ただ、席を案内する店員だけがいる状態だ。

しかも超人気店で、人が外に番号札を持って並んで待っている。そんな店。

出来上がった寿司が一番最初に現れる、いわゆる、回転路の出口に近いとか、
それこそ、その最初の席に座っている人は、
出てきた先から自分の食べたいネタを真っ先に取って食べることができるが、
席が後になればなるほど、選択肢は少なくなる。
下手をすれば末端の席の人は寿司を永遠に食べられないかもしれない。

後から来たものは、一番前の席に座りたくても、
そこの客がどかない限りそこに座ることはできない。
外で待っている間に空いた席が一番前でなく、
途中だったり後半だったりするかもしれない。
「いや俺は一番前に座りたいんだ」と言う主張は通用しない。
空いてる席に座るのが嫌なら、順番を譲るか、食べるのをあきらめるかだ。

僕らは選択したと思っているその選択肢は実は「空いた席」でしかなく、
つまりそこに座るという選択肢しかなかった。
大トロが来てくれるのはいつになることやら・・・。

僕らは僕らが選ばなかった責任を押し付けられ、義務を押し付けられ、
行使できるはずの権利を贅沢だと非難されるか、
行使したところで状況はあまり変わらない。
そんな世界にいる。そう思ったことはない?

僕らの正義は本当に正義なのだろうか?

民主主義が紡ぎだした、価値観はそんなにも正しくて、
独裁政府下の価値観は何処までも悪なのだろうか?

イラクのフセインは資本主義国から悪の枢軸とまで言われたが、
少なくともあの抑圧のあったおかげで、原理主義者のテロによる死は、ほぼなかった。
死なないことが正義ではないのは承知だが、正義を行ったつもりの資本主義国は、
テロという流血を止めることができないでいるのも事実だ。

正義とは、時代によって変化する価値観であるから、
昔が間違っており、今が正しいとは言えない。
何しろこれから千年後の人が21世紀の正義を正義だった
と見てくれる補償は何処にもない。

家父長権が強かった紀元前、父親は妻や子供たちの躾どころか、
殺生与奪の権利までも持っていた。

旧約聖書のアブラハムは、
自分の子供を神にいけにえとしてささげることを迷わなかったのは、
信仰のゆへだけだったとは思えない。

家父長権を前提とした常識がまずあったからこそ、
アブラハムは迷わなかったのだ。

だが、それは違うと示したのが神様だった。
アブラハムの信仰をゆるぎないものと見た神は、
家父長権という伝家の宝刀を振り回すことが絶対の正義ではないことを、
この話で示した。

キリストの時代にも、キリストは、
過去の正義を組みなおすという手法で、正義を新しくした。

僕らの正義も、いつか新しくなる。
それを受け入れるという選択肢こそ、僕らの正義であるのかもしれない。

この『これからの「正義」』は、早い話、
正義を定義するのは、人、モノ、事、時、の総合体なのか、個別な何かなのか?
という問いをし続けているんだと解釈しました。

サンデルさん自身の答えは、
結論とはいえないけどと前置きして「やってみないことには、わからない」という、
小学生でも導き出せる結論を提示してくれているのだけど、
いや、これは笑っちゃいけないのよ。

哲学ってのは、出せない答えの研究なわけだから、
「やってみないことには、わからない」というのは究極の答えなわけでもあるからね。

これまで、アリストテレスやカントやベンサムや数々の哲学者たちの、
突っ込みどころ満載の答えを披露して、弱点と正論を掻き回した挙句、
答えは丸投げってのも酷い話だけど、
これは「考えることを止めるな」という忠告でもあるんだと思う。

考えることを止めた人たちはロボットになるしかなく、
ロボットは誰かの正義で動くしかない。
その先が道の切れた断崖絶壁でも、落ちるに任せて、粉々に砕け散ろうと、
知ったことじゃない。なんて人生はやはり、嫌だからね。

だから、僕はクリスチャンであることを良しとしても、
様々な哲学や宗教論に興味を持ちたいし、『聖書』を誤謬のない完璧な本としては、
受け入れる気にはなれないと思っている。

ただ、だからというので、宗教と政治論の関連性を完全否定するつもりはない。
と言うか、「政治論」というのは、「宗教論」の新しい言い方に過ぎないと
僕は思っているからだ。

『価値観』がいつ生まれたかは知らないけれど、先日、
熊でも閉じ込められているという状況を「よし」とはしない価値観があったからこそ、
ここぞとばかりに脱出したわけだしね。

人間の場合は多分、世代順の経験を基にした価値観から始まったのだろうけど、
大きなコミュニティーを支える上で、宗教(神)という価値観は、
とても便利がよかったのだろうと思う。

一神教であろうが、多神教であろうが、価値観はまず神にあって、
その価値観が上から下されたものか下から真似たものかのかの違いが有るだけだ。

『ローマ人の物語』の著者の塩野さんはどうしても、一神教は押さえつけ、
多神教は寛容であるという論法を展開しがちだけど、
「いじめ、かっこ悪い」というのと、
「いじめ、好きにすれば」のどっちが、素敵か考えるだけで、答えは出そうなもんだ。

それに過激な行動を取るがゆえに一神教を非寛容だという論法は、
単純に過激な奴らが教えを勘違いしてるだけであって、
過激を絶対の是とするのはカルトくらいのもんだ。

そもそも、人を過激な行動に追い立てるのは、一神教に限った話じゃないしね。
ポルポトは一神教じゃなかったし、
日米安保時に世間を騒がせた赤軍も一神教とは関係ないっしょ?
ソ連は宗教を完全否定した後、大量の虐殺を行ったしね。

「イデオロギー」というのは、
結局「宗教」の言い換えに過ぎないと思うのは、そこら辺りからですな。

逆に、リンカーンはキリスト教信仰のゆえに、黒人差別を否定したし、
キング牧師は無抵抗運動を提唱したしね。

まあ、ブッシュさんとかみたいに、聖書に手を置いて、
イラクと戦争します。って宣言する人もいるにはいたけど、あれは、
キリスト教がおかしいのじゃなくて、そうゆう宣言をしてしまえる曲解や、
ご都合主義的に無茶な解釈する方に問題があるのよ。

リベラリストだって、個人の自由を尊重するからといって、
「自由に殺したい人を殺してもいい」とか解釈されちゃ、迷惑な話っしょ?

だいたい、
現在の『価値観』が宗教にまったく支配されていないというのは、おごりだと思う。
普段、何気ない価値観でさへ、親を敬うとか、
人に迷惑をかけないとか、感謝するとかいうのは、どこの宗教でも教えているし、
それを宗教の一部だと理解できないほど、浸透しとしてまっている。

いや、宗教が無くても人は正しく活きられる。なんてのはぜひ、
1000年前のゲルマン人やフン族に言い聞かせてほしいものだ。
彼らには他コミュニティーの人々を殺戮し持ち物を略奪することに、
良心の呵責なんて微塵も無かった。
彼らが農法図な暴力から距離を置いたのは、
何も農耕民族になったからだけが理由なんかじゃない。
宗教がそれは正しくない価値観だと教えたからだ。

だから、、政治的な話をするときに宗教思想を持ち込むのは、
間違いだという物言いは、そもそもできない相談だと僕は思う。
ただし、暴力的な頑なさを振りかざして、人の話を聞かないなんてのは、ナンセンスだ。
しかもそれは、何度も書くが、(まともな)宗教が望んでいる方法論じゃない。

僕らは、『思想』という新しい『宗教』によって、
共同体の中で、いかに強調しあうか、不平等や差別という、
無くせるはずの無い『本能』に、どんなうまいウソをつき続けるかを、
考えるという問題に色々な脚色を試みる。
哲学とは僕から見てそう見える。

マイケルさんの言うとおり、まさに「やってみないことには、わからない」が、
とりあえず、未だに成功例は無いという状況の中で。

というわけで、やっぱり僕は僕の『回転寿司の理論』を押す!


【今日の作品】【これからの「正義」の話をしよう】
【今日の部員】木戸 福三郎さん

【これからの「正義」の話をしよう】(前)

最近の書籍は、厚手の紙で、文字大きめで、
余白たっぷりなのが流行だと誰かが言ってたのだけど、
このサンデルさんの本はそれらすべてから逆行した、活字嫌いには、
開くのもイヤになりそうな、文字量。はじめの4ページを読んだだけで、
こりゃいかん!と思ったさ。難しすぎる。

で、このサンデルさんのすごいなと思うところは、
難解さとかかそうゆうことじゃなくて、この人の、スタンス。

講義の放送を聞いていても思ったし、
4ページ目まで読んだところで思ったんだけど、
絶えずいくつかの考え方を紹介するのに、
自分はそのどれを一番支持するかという表明が、
かもし出されてさへいないということ。

普通、話すにしても、書くにしても、特に僕なんてそうだけど、
中立な立場を装いながらも、自分の支持する考え方があって、
表現のそこかしこに、その部分があらわになるものだけど、
サンデルさんは、それが見えない。
学生たちに討論させて、そのどちらにも突っ込みを入れたり、
意見として参考にしたりしている。

当人はコミュニタリアンに属するらしいけど、そのコミュニタリアンを、
何ぞやと思ってウィキで調べたら、やっぱりさっぱり分からなかった。
日本語にすると共同体主義となるので、じゃあ、共産主義や社会主義なのかと思ったら、
それは間違いで、リベラリズムよりは、ちょっと、全体主義的なだけ?
でも全体主義でもない。
ものすごくとぶっちゃけていうなら、日本の察しと思いやり的なものではないかと。

僕の場合、読書感想文とか言いながら、その実、著者に突っ込みまくるのが、
スタイルで、それなのに、今回のこの本の場合、
突っ込むことが非常に難しいことが判明。
得意技を封じられてしまったような焦燥感を禁じえないのである。
もうね、著者が突っ込んでいる人や事を一緒になって突っ込みを入れるなんて、
みっともないことはやりたかないんだけど、戦法変更も致し方ない。

そこにある最初の内容は、
2004年のハリケーン「チャーリー」の通過後に
実際に起こった出来事からの考察な分けだ。

台風一過、物資や家屋の倒壊などで、家をあぶりだされた人に対して、
物資やサービスを通常の価格よりも5倍以上にも値を吊り上げて、売る行為。
いわゆる「便乗値上げ」を、肯定するか、否定するかというもの。

僕なんかは、当然、「許せねぇ!」と思う立場だけど、経済学者の中には、
「便乗値上げ、いいんじゃね?」って考える人がいるらしい。
物の値段は、欲する人の量と生産できる量で決まるということらしい。
つまり、より高いお金を出せる人の付けた値段がその商品の値段となるってことやね。
無茶な考え方だなぁとか思う。いやいや、分からなくはないのよ。
ある意味、商品の値段ってのはそうやって決まるものだと思う。
でもね、それって一側面だべ?とも思うのよ。

サンデルさんは指摘してないけど、学者っつうのはなんでいつも、
片側からしか見ないのかなぁ? と常頭ね思う。
この肯定論学者の言うことには、商品の値段が高騰することによって、
それでも売れると思った業者がそこに集まり、生産数を上げるので、
経済的効果があるというのよ。ほらね。
一側面しか見ていない。

もし僕がその場にいて、便乗値上げにぶち当たったら、
その場では仕方なくその店で買うだろうけど、自体が沈静化して、
市場が元に戻った時点でも、やっぱりその店を利用するだろうか?

私だったら利用しない。ちょっと遠くても別の店に行くさ。

便乗値上げは、その場では一時的に儲かるかもしれないけど、
いつまでもその状態を続けることができるわけじゃない。
事態が収集した後に、便乗値上げによる、恨みや疑心で、
その店の信用はがた落ちになり、
むしろ売り上げが落ちる可能瀬のほうが高くないかと?
それでも便乗値上げが、経済効果があるといえるのだろうか?

サンデルさんは、この話で、道徳について問うている。
まあ、ぶっちゃけて言うと、サンデルさんは便乗値上げを、
道徳的ではないと談じている。僕もその意見には賛成。
それに、道徳うんぬん以前に、人の心情に付いて考えれば、
一時的な目先の利益に走り回りを踏みつけることは、
むしろ周りからの信頼を失う行為で、損得勘定でも得策ではないと思われる。

『パープルハート勲章』

アメリカにはパープルハート勲章というものがあるらしい。
戦場で負傷した兵に送られる勲章ではあるのだが、この勲章は精神的な傷は、
対象にしていないということだ。
このことをこの著者のサンデルさんはどうやら、あんまり、
よいことだとは思っていないらしい。
精神的といえども戦場で受けたものなのだから、
勲章をもらう資格はある。というわけだ。

これを反対する側の理由としては、精神障害は、その人の弱さが原因であって、
勇敢に戦った結果のものではない。ということらしい。

どうなんだろう? 怪我をした兵士全員が、勇敢に戦った結果の傷なんだろうかと。
実は逃げ出そうとした拍子の怪我かもしれないし、
後方で戦闘とは関係ない不注意による怪我かもしれないのに、
それらは勲章の対象になるのだろうか?

それでも、私は反対派の方に分があると思っている。
やはり、精神的障害(トラウマ)を受けるのは、
使命感や愛国心があるないにかかわらず、
迷いがあったからではないか?と思うからだ。
人を殺すことの迷い、自分が死ぬかもしれないという迷い。
仲間が目の前で死んでいく恐怖、戦争そのものの意義に対する疑問。
それらが現実に目の前で起こることを、許容しきれない自分を作り出し、
精神的障害を受けたのではないか?
積極的に迷いなく戦うものが、トラウマに襲われることは、
ほとんどないだろうと思われる。

勲章というのは、誇りであるべきで、慰めではないと思う。
迷ったものを慰めるために、勲章をばら撒くようでは、
勲章の本来の意味は失われるだろう。
こう考えるのは、やっぱり私が、やっぱり右派だからだろうか?

『暴走する路面電車編』

サンデルさんは、昔から問われているテーマである、「トロッコ問題」を、
路面電車に置き換えて話を進めている。

この話の要点は、ああすればいいじゃん、こうすればいいじゃんということではなく、
5人対1人、どちらを選ぶか?、
選んだときに感じる自分の心理はどんなものか?を問うている物語だ。

叫べばいいじゃんとか、そのスピードじゃ曲がれないとか、運がどうこうとか、
そうゆう事を問うているのじゃないわけよ。
ぶっちっければ、シチュエーションなんてどうでもよくて、問いたいのは、
5対1の理論な分けだな。

ただ、トロッコ問題というのは、外から、軌道を操作するので、何もしなければ、
自分はかかわりがないといえてしまうのに対して、路面電車の運転手な場合は、
どちらの道を選んでも自分の責任となるのがぜんぜん違うインパクトになっている。
という意味でサンデルさんは、路面電車を選んだのだろう。
実際、トロッコ問題は、「何もしない」という人がいる。
5人を生かすために、軌道を変更すれば、それは一人を殺すことになる。
殺人はいけないことだから、何もしない。という考えだ。
何もせずただ黙って五人の死ぬのを見守るわけだな。でもそれでも、私は思うんだ。
軌道を動かせば、五人が死なないで済むことを知っていながら、
何もしないということは、
何もしないという行動を起こしたということにはならないかと。
手は血に染めてなくても、心にはたっぷり返り血を浴びているんじゃないの?と。

この例えを地で行っているというか、複雑にした話が、この本で紹介されている。
難破した船から何とか脱出した船員たちの物語。食料が尽きたとき、
他の者が生き延びるために船員一人を殺して、みんなで食したというもの。
もうひとつは、アフガニスタンでの米軍の侵入ミッションが、大失敗する話だ。
数人の仲間と潜伏していた先で、ヤギ飼いに出くわしてしまい、
それを処理しなかったがために部隊が一人を残して全滅してしまったという物語。

船の話の方は、そうしなければ、確実に全員が全滅していた可能性は高い。
でもアフガニスタンの話は、より複雑で、不確定要素がありすぎて、
判断を難しくしている。
あるいは、ベトナムや北朝鮮と戦ったことのある兵士や、
その話を聞いている兵士ならば、そのヤギ飼いを殺すことを提案したかもしれない。
民兵ゲリラの恐ろしさをよく知っているからだ。
しかし、体験のない者にその判断はなかなかできるものではないだろう。

サンデルさんは、これらの問に、自身の答えは表明していない。
功利主義と呼ばれる、いわゆる、数の理論的幸福論者や、
リバタリアンという個人絶対主義論者の考え方、そして、
カントの考え方を紹介しているに過ぎない。

僕は、トロッコや路面電車の例えならば、5人が生き残る方を選ぶといえる。
でも、アフガンのそれは、どうにも判断できない。サンデルさんの言うように、
ヤギ飼いたちは、通報しないかもしれないし、通報しても、
ゲリラは襲ってこないかもしれない。
ゲリラが襲ってきても、こちらが勝てるかもしれない。
殺す理由が、判然としないのだ。

村の平和のために子供を地下に閉じ込めておくという例えもあった。
確実な論拠や、目に見える証拠があったとしても、
それは正しいことのようには見えない。
ではだから、村が亡んでもよいのか?
究極の選択とはまさにこのような選択のことなんだろうなぁ。

時に、サンデルさんは言及しなかったのだけど、
もうひとつの例を考えてみた。
「蜘蛛の糸」の話だ。
主人公のカンダタが垂れ下がった蜘蛛の糸を登るとき、
後ろから大勢の者が一緒に登ってきたという件。
どう考えても、糸は、その人数に耐え切れない。
そのままにしておけば、糸は切れて、その大勢も、また、自分も、
地獄の池に舞い戻ることになる。
カンダタは、自分より下の糸を故意に切って、下から付いてくるものを、
落とすべきだろうか?そうすれば、確実に一人は助かるのだが?

今度は、5人対一人ではない。一人か、全員かの選択だ。
どちらにしても、助からないその他大勢と、助かるかもしれない一人の命。
さあどうする?

『功利主義編』

ジェレミー・ベンサムという「功利主義」提唱者が紹介されている。
個人は多くの人の幸せのためにあるという考え方の人というと、
ちょっと言いすぎだけど、でもま、そんな感じのことを主張している人。
だから、「功利主義の弱みは個人の権利を尊重しないことだ」と反論する人がいるわけ。
前に書いた感想での5人と1人、どっちを選ぶ?という問に、
5人が生き残る方を選ぶとするのは、単純に見れば、
この功利主義に分類されてしまう回答らしい。
ま、僕の場合は、5人の家族に謝罪に回るより、1人の家族で済む方が、
気持ち的に楽だからという理由なので、功利には当てはまらないんじゃないかと、
個人的には密に思っている。

この話の例の中で、「テロリストの拷問」の正当性について語られていた。
アメリカのドラマ「24」でもシーズン7でおもっきし主人公の足を引っ張る方向で
取り上げられたテーマだ。
ジャック・バウワーは、核爆弾のありかをはかせるために、
前のシーズンで容疑者を拷問したということが、憲法に反するということで、
聴聞会にかけられるという展開だな。
その急先鋒だった、人物は結局テロリストに殺されるわけだが。
ベンサムの理論だと、この拷問は許されるということになる。
最大幸福を守るための一人の犠牲はOKなのだから。でもこれは、例えが悪いよね。
明らかな悪党なんだから、かばう方がおかしいと、誰でも思うもの。

ベンサムさんは「われわれは快や苦の感覚に支配されている」としている。
誰もが快楽を好み、苦痛を嫌うというわけだ。で、だからどんな行為でも出来事でも、
快か苦で統一できるとするわけだ。統一できるので、量計できる。そう考えた。
つまり、絶対多数の快楽こそが道徳だという意見だ。
それに賛同するエドワード・ソーンダイクさんは、
それを証明するために学生にアンケートを行ったらしい。
様々な苦痛の例を提案して、君ならこの苦痛を幾らでなら、
感受できるかというアンケートだ。
なんと、意味のないアンケートかと思ってしまうが、
本人はいたって真面目に結論を出せると思っていた。そりゃ、数字はでるさね。
出るけど、競りじゃねぇんだから、個人個人で違う数字を書くだろうに。

というわけで、著者のサンデルさんは、
それは違うんでない?と他の人の意見を紹介している。
人の道徳というのは、それが強制されたり、
外からの要因ですることではなくて自分の純粋に、
それが目的であり結果である場合が道徳だと。

たとえ自分が好まない結果であっても、それが道徳として正しいなら、
そうすることが、道徳だと。でも、これはこれで違うんじゃないかと思う。
むしろ、僕も、人は快や苦の感覚に支配されていると思うからね。

死にたい人なんて普通いないよね。自殺志願者でもなければ。
(もっとも三万人超えが自殺してる日本では説得力も薄いけど)その死にたくない人が、
自分の命を賭してでも誰かの命を助けるというのは、正義だし道徳だと思うわけよ。
そのときの彼の感覚って、死にたくない自分がそれでも人を助けている。
という満足感と、その人が助かることへの期待感があると思うわけだ。
それって、「快」だよねと。

もうひとつ。誰かの罪を告発するとき、その誰かが自分の愛する人で、
本当は刑務所になんか行かせたくないと思っているんだけど、
正義のために告発したって場合、自分は正義を通したという満足があると思うんだ。
少なくとも、言い分けると思うんだな。それって「快」だべ?と。

ちなみに、この二章の中に出てくる「キリスト教徒をライオンに投げ与える」催しは、
そんなにヒットしなかったらしくて、というかむしろ、
「ちょっと残酷すぎね?」「別に、悪さしてる人たちじゃないのに?」
という不評を買うことも有ったらしいですな。
まるで、常時やってたみたいな話になっているのは、
キリスト教系政府となったローマが、過去の皇帝を非難し、
現政府の正当性をアッピールするための、誇張だったというわけだな。

『リバタリアン編』

リバタリアンというのは、自由絶対主義というか、
いちいち干渉してんじゃねぇ!主義。
どうやら、リバタリアンって、バイクに乗るときのヘルメットの義務化や、
車に乗るときのベルトの義務化も、余計なお世話であるらしい。
それで、怪我したり死んだって、本人の責任であって、
かんけぇねぇじゃん!という人たちらしい。

そんなわけないわな。
関係ないで、放置できるわけがないわけで。
怪我すりゃ、医療費がかかるし、そのために人が働かないといけない。
死ねば、死体の処理とか、死因の調査とか、手間はものすごくかかる。

でもリバタリアンは言うんだ。
治療費は、怪我した奴が出すんだし、
医者は対価を受けてそれを治療するんだから、誰も困らない。とね。
出せねぇ奴はどうすんだろ?出せないのが悪いからほっとっけって?
それに、怪我したり死んだ奴が、会社や組織で重要な役割の人だったら?
その人が欠けることで、深刻な問題が起こる場合は?
リバタリアンは自由のために、不自由になる人の事を考えてないよね。
そう思ったね。

第三章で、サンデルさんは、徴兵制と志願制、腎臓の売買問題、
代理母の問題をテーマにしている。
リバタリアン的には徴兵制は受け入れられないとなる。
私も徴兵制には反対だが、実はこの徴兵制の例えはブラフで、
本当は、貧しい人のために、お金持ちから、お金を強制的に取り上げるのは、
正しいか?という問いかけが隠れている。
リバタリアンは、金持ちの中で、寄付したいものが寄付すりゃいい。としている。
無理やり取るのは、徴兵制と同じだと。徴兵制は反対だけど、
貧しい人を助けるための、強制徴募は、賛成という人にはこれは痛い指摘だ。

実は、僕は、強制はいかんと思っている。
自主的に寄付するならぜんぜんオッケーだけど、強制はあんまよくないよね。
そういった意味では、先ごろ、ビルゲイツの呼びかけで、
資産の数割を自主的に寄付する呼びかけってのは、理想的だと思う。
サンデルさんは参加したのかな?

でもね、圧倒的に、出したくない人の方が多くないかと?思うんだな。
特に日本なんて、寄付する金に糸目をつけまくるでしょ。寄付される額も小さいし。
24時間テレビとか、子供がペットボトルにためた小銭を集めてるだけだべ?

色々な慈善団体がいるけど、そのほとんどは、ジリ貧で、風前の灯の中、
使命感だけで続けてるような感じだもんね。
そうゆうのを見るとね。強制もしかたねぇんじゃねぇかと思えてしまったりするさ。

ああ、でも島田紳助のやり方って、面白いかったな~って思た。
カンボジア支援の金の集め方とか、パフォーマンス業の人に対する、
ギャラの出させ方とか、うまいこと、小金持ちを釣ってるなぁって。
「世界1のSHOWタイム~ギャラを決めるのはアナタ~」って番組は、
普段、一回の興行では絶対にそこまでは稼げないだろう人たちに、
高額ギャラをつかませて上げるという。
あの覆面四人組なんて、普段は一回の興行で、数千円とかの世界だろうに、
年収並じゃないかという収入を手にできてるもんねぇ。紳助さん、尊敬する。

何にしても、リバタリアンさんってのは、
自由には責任がセットだという意識が欠落している人の事?と思えてしまうっす。
自分が、自由に生きられるのも、お金を稼げるのも、国家あってこそというか、
警察機構がとりあえずしっかりしていて、医療機構もとりあえずしっかりしていて、
インフラもとりあえずしっかりしているからだということを忘れちゃあかんと思うねん。
それをしている人には、とりあえず、税金という形で、
対価を払っているといいたいんだろうけど、その他大勢だって、
そこにいるからこそ、あなたもいられるんじゃね? という意味で、
そこにいるという対価を払うのはOKじゃね?

『イマヌエル・カント』

イマヌエル・カントの主張を正確に理解するのは難しいというのは、
実によくわかった。

マイケル・サンデルというフィルターが有るにしても、この人の、道徳的な行いが、
行いの前後に左右されないことが純粋な道徳だという主張は、たとえば、
人助けならば正義ということだろうけど、カントのいう、
動機が達成されるべき目的と同一であるときの、
動機とは何をもって正義と定義しようとしているのだろうか?
という疑問が結局払拭できないまま、サンデルさんはカントの話を終えてしまう。

「多数決が正義とは限らない」というのはわかるし、
「その途中にはたとえ正義とは思えない何かがあったとしても、
結果的によりよい効果がもたらさされるであろう過程」をもってして、
それを正義というのも、違うというのはわかる。

ただ、では正義とは何か?
ただ黙ってそこに突然、誰の目から見ても正義であるという概念や
動機なるものが発生するなんてありえないわけで、つまり、動機は、
動機として思考する以前に、
それを正義や道徳と思わせる何か経験とか伝聞が働いていると見るのが自然だろう。
だとすると、いきなり、カントのいう、
「純粋な動機」はその始まる前から崩壊していることになる。
「人間嫌いの男が純粋に人は助けなければいけないから助けた。」
という例えが紹介されているが、カントは、その助けた結果後に、
その人やその人の周りで何が起ころうが、
人間嫌いの男のしたことの道徳性は損なわれないとする。
人ごみでチェーンソーを振り回しながら暴れている男が、
勢い余って倒れ掛かったのでそれを助けることが道徳だからと
直感的に思ったから助けたら、
それは正義だったり道徳だったりするだろうか?
それがまかり通ってしまうと、
今度はカントが眉を潜めて嫌うリバタリアン的でさへあるように思えるわけだが。

というわけでの、助け舟的に、
サンデルさんはジョン・ロールズの話を持ち出している。
結局のところ、小理屈をこねくり回しても出てくる答えは、
多数決でしかないという解釈をしちゃうと実もふたもないのだろうけど、
無垢なる者、利害を持たないものが集まって、
これは正義これは悪と決めていくなんてことは、
どだい無理なシチュエーションだし、思考実験として試みた場合でも、
まずもって「正義」を定義するためには、悪を知らなければならず、
無垢なる者にそれが可能かという問題が発生する。
会議者の誰かが何かの弾みで誰かの顔なり肩なりに手が当たったとしよう。
当てた本人はそれが相手に対して不快な思いをさせていることだと知るには、
相手がそれを不快だと表明しなければならないが、
当てられた本人がそれを不快だと思う理由を見出せなければ、
何もなかったことと同じだ。
当てられた本人が、痛かったので不快だ。と表明しても、
あなたには痛かったかもしれないが我々は痛くなかった。
だから悪ではない。という結論が出れば、
不快だと思った方が少数派になってしまう。

徒競走の例も挙げられていた。みなが同じスタートラインに立ったとして、
だからみなが平等だとは限らない。そのスタートラインに立つ前に、
資産のあるものは、プロのトレーナーを雇い、十分な指導の元、
バランスの取れた食事をとり、優れた靴で練習ができるが、
貧乏な家に生まれればそうはいかない。
いかに自分のできうる限りの努力をしても、資産家の子供のようには走れない。
特別に例外事由があって、極端に速い子が現れる例は実際いにおこっているが、
そんなのは一般論として、適さない。

小学校で一時期「俊足」と呼ばれる靴が流行し、その靴を履けば、
徒競走での走破速度が上がるという理由から、運動会前になると、
親にねだる子供が大勢いた(実際には靴の効力はほとんどなく思い込みによるのだが)。
結局、人は、自分の意思で選択しているつもり、
自由意志による決定をしているつもりで、多数派を選び取り、
社会という一塊の流れに正義や道徳を感じる。

カント自身が考察した道徳や正義を、200年後の今に当てはめて考えるのは、
酷だし、カントの思想は、現在の民主主義のあり方の布石にはなったという功績はある。
しかし、今もって、カントの道徳の初めがどこから来るのかの答えは、
人には出せないでいるのだと思う。
少なからず、クリスチャンであったという影響が彼になかったとはいえまい。
聖書の書かれる以前から、人は、正義や道徳の形を模索してきたわけだし、
歴史はその模索と実験の実践上だったのだから。

家父長制度が当たり前だった時代、初めて上からではなく、
下から指導者を決めるという画期的な選択がギリシャでなされたとき、
多くの矛盾がギリシャを一流国家から、三流国家にまで押し下げた。
その轍を踏まない自決主義的民主主義がローマで長い歴史を刻んだが、
「自分たちで決めること」に疲れた人々によって、
ローマ帝国は消えた(滅んだのではなく文字通り消えた)。
その後の数百年、人が甘んじたのは、自決権ではなく、
他決により支配される方法だった。無責任で要られるし、
責任を支配者に押し付けることができるからだ。

近現代はどうだろうか?
日本、ドイツ、イタリアによる帝国主義が世界を二分する正義の片方であったし、
今も、共産主義という他決に依存する世界は存在し続ける。

では、民主主義、資本主義と呼ばれる、国々の人々が真の意味で自決できているのか?
産まれる前から決定されている、資力が及ぼす学力の差が、我々の進む方向、
そして嗜好を絶えず決定し続けている。
それが絶対悪だとはいえない。
それを悪にするのは、自分の選択が自由によらない結果だと知ることよりもむしろ、
甘んじることなのかもしれないし、持てる者の無理解によるともいえるかもしれない。
甘んじることは努力を止めさせ、無理解は無関心をはぐくむからだ。
それは同時に向上心を人々から奪う。

道徳や正義は結局、数百年を単位に、席を譲り合う形無き遺伝子反応なのかもしれない。

ここまでが、『これからの「正義」の話をしよう』を第6章まで読んだ上での感想。
全部で10章有るので、まだ道半ばというところ。

哲学というのはさまざまな人がさまざまなことを考えることを、
ひとまとめにして、結局結論はこうだという答えを出す作業ではない。
むしろ、それぞれの意見を出し合って貶しあい、あるいは意識を新たにして、
また別の思考を生み出す作業であると思う。
正直、哲学はパンも衣服もくれないという意見はある。
極論すれば、ユダヤ人を悪だと言い放ったヒトラーのそれも、彼なりの哲学だったし、
それを受け入れた人々は現実にいた。だから哲学は無駄なのか?
いやいや、無駄だと思うこともまた哲学なのだと思う。
哲学のいう正義は必ずしも多数決や弱者救済を諸手をあげて賛同すなんてこともしない。
単なる思考実験それが哲学かもしれない。
でも、小さなバクテリアがさまざまな多様性を武器に、生き残ってこれたように、
哲学もまた、さまざまな可能性を示すことで、
少しでも長く人類が生き延びるための多様性を示しているのかもしれない。


【今日の作品】【これからの「正義」の話をしよう】
【今日の部員】木戸 福三郎さん

【日曜日たち】

気持ちの底に染み入ってくストーリーの展開。
3回は読み返した。

連作の短編集なんですが、それぞれの話に1本の<糸>が通っている。
あっ、繋がっている、か。
いや、すっと真っ直ぐ通っている、やっぱり。

その<糸>は、母を捜す幼い兄弟。

兄弟は都会で暮らす5人の若者たちの、
いずれも閉塞感ある日曜日の中を縫っていく。

私は途中で、幼い兄弟が神様じゃあないかと思えたりした。
若者たちは何らかの形でこの兄弟にかかわる。
そのかかわり、気づけば何かを生んでる。  

いいですよ、話の流れが。 
展開がどんどん・何処かがどんどん。
で、暖かくなる。

好きな文章が・表現が・描写が多々あって、ドッグイヤーがいっぱい。
三角に折られたそのページを開き、自分が好きだなと想った個所を探す。
気づけば そこからまた読み始めている。

吉田修一氏、『悪人』も、このたびの『日曜日たち』も、とても良かった。
小説家って本当に凄い。


【今日の作品】【日曜日たち】
【今日の部員】昨日:モディ★今日:脳腫瘍 ★明日:リリー

【家日和】【我が家の問題】

『家日和』⇒『我が家の問題』の順番で読んだ。

イン・ザ・プール』、『空中ブランコ』、『東京物語』以来の奥田氏。
今回のはどちらも短編集で、2冊ともテーマは『家族』。

うん、けど、
<ほんわか・あはは・そうそう そうなんよ・バカじゃねえ>展開で
とても面白かった。

<関係は近いもんのはず!なんせ家族ですから!>という括りになったばっかりに、
よう分からぬまま言葉足らずだったり、滑稽すぎる思い込みだったり、
既製品価値観か?だったり、思いの他の遠慮関係だったり、
なんだ、そーか!だったり。

家庭内暴力が出てくるわけでもなく、児童虐待が出てくるわけでもない。
話はテンポよく進みます。実に気持ちいい。

どのストーリーも、
スッキリ満足で、〆が来ました。

そのスッキリ感、上質ナリ。
なんせ伊良部ドクターを生んだ奥田英朗氏ですもん。

ネットオークション妻、主夫、別居、妄想浮気、ロハス主婦、帰宅恐怖症、
夫は仕事ができない?親は離婚する?オカルト夫…とか。

「ただいま~」…玄関のドアを閉めたら、そりゃあ、いろいろ詰まっていますもん。
どれも縁無き遠いストーリーではないんです。


【今日の作品】【家日和】【我が家の問題】
【今日の部員】昨日:モディ★今日:脳腫瘍 ★明日:リリー

【悪人】

その文庫本のカバーに深津絵里さんの写真。
それだけでふら~っと買った本。(へぇ~ 映画化かあ。)
  
この小説は朝日新聞に連載されていたそうだ。
(えっ、新聞に? 週刊朝日じゃなくて?)と思った。
なんか…描写がね、朝に配達される新聞向きじゃあない気がして(笑)

でもま、『失楽園』も日本経済新聞朝刊の連載だったし。
映画化に当たっては、PG-12みたいです。
小説の方は、PG-15?18?のような。

文庫本のカバーに写真が載っていたのは、映画にキャスティングされた
妻夫木くん、深っちゃん、樹木希林さん、柄本明さん。
ストーリーを始め全く予備知識ゼロゆえ、読み進みながらその4人を探した。

妻夫木くんはすぐに出てきたが、深っちゃんがなかなか出てこない。
(この女性かな?…いや違う、違うな)を数回。
樹木希林さんの役どころはさすがにすぐ分かった。
柄本さんはどの登場人物かなあ… 
この女性の父親かあ…違うかあ…を、最後まで。

小説のタイトル、著者が吉田修一氏、
新聞連載、大きな賞をもらっている作品、映画化される…
何も知らないって、深っちゃんの写真だけで、って、
そ、御縁!結果、良縁!

映画サイトに紹介されていた、ある登場人物の台詞がとてもいい。

「あんた、大切な人はおるね?
 その人の幸せな様子を思うだけで、自分までうれしくなってくるような人は。

 今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎる。
 自分には失うものがないち思い込んで、それで強くなった気になっとう。

 だけんやろ、自分が余裕のある人間て思いくさって、
 失ったり、欲しがったりする人間を、馬鹿にした目で眺めとう。
 そうじゃないとよ。それじゃ人間は駄目とよ。」

この小説は、<悪>じゃあなくて、<悪人>を 描いてるなと。

私には推理小説でもなかった。
私には恋愛小説でも無かった。
群像小説、人間小説って感じだった。

<悪>について描いているなら、
私には鋳型のある抽象になってしまうけど、
<悪人>について描いているから、私には人間小説。

面白かったです。
どんどん読み進めました。

上下2巻の長編、たくさんの登場人物が出てきますが
一回もこんがらがること無かった。
いくつものシーンを描きながらも不思議な距離。
実際はとても近いのだけど。関係が。

そう、時系列と言うより人間列。
それら幾つかの列のど真ん中で描写されているのは、
みな生々しい人間が居るシーン。

だから、何と言うか、恐ろしいほど体温があると言うか…
うん、いや、『ほど』は要らんね。まんま 恐ろしい体温。

登場人物の皆にそれなりの<悪>があって、
それはその人物が生きてるのに、
ごく当たり前のように付随してる<悪>で、
んもう、皮膚感覚の<悪>だから、
極自然に、軽量に、時には軽薄に、<悪人>が誕生する。

その自然さが、その軽量さが、<悪>なんかもなあと。

さあ、次は映画『悪人』。
妻夫木くん、深っちゃん、
ネイティブ方言を話す『清水祐一』、
ちゃんと<悪人>になってる『馬込光代』。

今になって思った。 
『清水祐一』が持っている<悪>が一番筋が通ってるんかもしれんです。
イヤ、<悪>に筋というのもオカシイか。


【今日の作品】【悪人】
【今日の部員】昨日:モディ★今日:脳腫瘍 ★明日:リリー

【重力ピエロ】

映画を見たら原作が読みたくなった。
面白かったです。

丸ごと1冊まんまを、
2時間あちこちの映画にするのはやはり無理で…
省いてたり、設定変更したりの映画本編でした。

映画も面白かったけど、
やっぱり原作のように細部まで、というのはできず、
ああ、映画は、どんぴしゃ・エッセンスが描かれていたんだなあと。

でもほら、本には文字の力があるから。

文字は平面にページに並んでるけど、
膨らむ、いくらでも、頭の中で。

読み進んでいくと、ああ好きだ。

それは言い回しだったり、
ストーリー展開だったり、人物設定だったり。

で、とても好きな箇所があって、
それは兄と弟とのある会話の中での、弟(春)が言ったコト。

※ 抜粋します ※

 弟「エッシャーって知ってる?」

 兄「絵描きだろう。あの騙し絵のようなやつを描く人だ」

 弟「そう。版画家の。彼はさ、ラスコーの壁画を見て、面白いことを悟るんだ」

 兄「(略)」

 弟「『造形芸術は進化しない』って」

 兄「(略)」

 弟「人類は様々なことで、進化、発展をしてきただろ。科学も機械もね。
   先人の教えや成果を学んで、それをさらに発展させてきた。
   でもね、芸術は違う、エッシャーはそう言ったんだよ」

 兄「芸術がどう違うんだ」

 弟「どんな時代でも、想像力というものは先人から引き継ぐものじゃなくて、
   毎回毎回、芸術家が必死になって搾り出さなくてはいけないってことだよ。
   だから、芸術は進化するものではないんだ。
   十年前に比べてパソコンも電話も遥かに便利になった。
   進化したと言ってもいい。
   でも、百年前に芸術に比べて、今の芸術が素晴らしくなってるかと言えば、
   そうじゃない。科学みたいに業績を積み上げていくのとは違ってさ、
   芸術家はそのたびに全力疾走をしなくてはいけないんだ。…(以下・略)」

自分が絵が好きだったことが、
確かにどっかひっかかてるかもしれない。

けど、思ったのは、
ストーリーの展開上、<芸術家>という括りで言ってるけど、
<芸術家>、つまりは<万人>じゃあないかと。

一人の人間として生きてくって、いつもゼロからのスタートだよなあと。

  どんな家に生まれたとしても、
  どんな親だったとしても、
  どんな運命に翻弄されるとしても、

つまりは、ひとつの個の人生として始まり、
その人生はオリジナリティに溢れてる。

そりゃあ影響とか感化とかあるだろうが、
同一ではなく限りなくオリジナルに近い。
いや、使う色を選べる。

自分の責任で選べるという事を忘れないようにすれば。
 

ゼロスタート=オリジナルだよなあと。
で、アーティストであっても・なくても、生きてくって、
どんな長さでも情況でも、求められるのは、
想像力と全力疾走に違いないようなあと。

賢いこと、愚かなこと、感じること、痛むこと、歓喜、悲哀…

例えシェアできたとしても、丸ごと・まんま、どこの誰にも、
代わることが出来ない。

ぐぐっと現実的になるけど、
恋愛する、子供の将来を案じる、嫁姑をする、病む…etc.の次元のあれこれを、
それぞれに、『さあ!』で、万人が・万人の人生で、新たに向かい合う。

「個」であること、それは完璧にみな同じなれど。


【今日の作品】【重力ピエロ】
【今日の部員】昨日:モディ★今日:脳腫瘍 ★明日:リリー

【日本のみなさんさようなら】

読んだのは文庫本。その文庫本の帯にはー

-『外国映画をわかろうとするヒマがあったら、
  わかる邦画をもっと深くわかりたい。
  映画評と呼ぶには あまりにも私的で詩的な心の情景。』 と。

リリーさんが、
少なくとも週に一度のペースで邦画を見ての、その映画評集。

まったくもって何というかの、
<評・文脈・例え>だったりなのですが、
それが、けっこう…
-『(…ん、そうかも!)』
と思わせる時もあるから楽しい。

かなりくだけた、通常の映画評とは色の違う映画評…なのか、
話のネタなのか、の辺り。

あはは、と笑いました!
なんじゃあーらホイと、引きました!

リリーさんが選んだ映画…

<誰が今頃見るんじゃい!>的なものもたくさん♪

まだ途中ですが、例えば、

・健さんの、『網走番外地・吹雪の斗走
・志保美悦子さんの、『宇宙からのメッセージ
・長門裕之さんの、『果てしなき欲望
・松尾嘉代さんの、『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形
・藤竜也さんの、『愛の亡霊
・丸山明宏さん(←美輪さん)と田村正和さんの、『黒薔薇の館
・梅宮辰夫さんの、『不良番長・出たとこ勝負』…とかとか。

で、この先も、

・『ザ・タイガース/ハーイ!ロンドン』とか、
・マサカズさんじゃあなくて市川雷蔵さんの、『眠り狂四郎 殺法帖』とか、
・植木等さんの『日本一のホラ吹き男』とか、
・佐分利信さんの『日本の黒幕』とか、
・ピーターの、『薔薇の葬列』とかが、先のページに待っています。

ね、セレクトがなんともスゴイです。

まったく知らない映画もたくさんある。
単行本が1999年、今から12年前であるのを差し引いても、
その古さ、マニアックさ、スゴイなあ。

で、実際、私が見に行く映画、ここ数年9割以上が邦画。 

ですから文庫本の帯の、
-『外国映画を見るヒマがあったら、わかる邦画をもっと深くわかりたい』
は、ようわかりました。

けど、そういう趣旨にそった映画評かと言えば…
はぁあ?の 「がはは」いっぱいです。

洋画よりふわふわと軽んじられてきた邦画、
その冷遇されてきた道のり考察手引き本…かな?


【今日の作品】【日本のみなさんさようなら】
【今日の部員】昨日:モディ★今日:脳腫瘍 ★明日:リリー

【永遠の仔】

中谷美紀さんの演技をしっかり見たのは、
2000年のドラマ『永遠の仔』。

調べたら、平均視聴率が11.8%だったらしいから、
お茶の間の皆さんに もれなくウケたんじゃあなかったんだ。

暗かったからね。
それに様々な幼児虐待・殺人・トラウマがベースだし。

自分が生きてることのリアリティが欠損してしまった人たちの話。

中谷美紀さんと、渡部篤郎さんと、椎名桔平さん、
石田ゆり子さんがメインキャストだった。

どの方も、凄みを感じさせてくれるほどの危うさが見事で、
見入っていた。   

中谷さんの演じる、神経質っぽさとか、頑なさとか、
憂いとか、孤高の感じとか、孤独感とか、危なさとか、
張り詰めた感じとか、絶望とか、凄かったと思う。

私、こういうのに、すぽっとハマる。

虐待を受けて育った訳じゃないのに、
のほほんと育ったのに、みごとにハマる。

当事者から遠いから対峙できるのかもしれないし、
なにか自分で気づかぬファクターをもてるのかも知れない。

当時ドラマに夢中になっていたら、
二男が学校の図書館から天童荒太さんの原作を借りてきてくれた。

一気に読み、結局、
手元に置いときたくて後日購入したのだけけれど、
この本&ドラマから、天童荒太さんのスペースが、
私の中で出来上がった。

天童さんは、あまり、次から次へと書く方ではない。
だからほとんど読んだ。

手持ちは、『孤独の歌声(1994)』、『永遠の仔(1999)』、
あふれた愛(2000)』、『家族狩り:文庫本全5巻(2000)』、
そして坂本 龍一さんとの共書、
少年とアフリカ 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話』、
包帯クラブ(2006)』、『悼む人(2008)』、『静人日記(2009)』、
あふれた愛』は、長男にも送った。

「切なくてやれんかった。泣いてしもうた」という感想を寄こしてきた。

天童さんの本を読んでる時、私はいつも何かを掴めそうで掴めない。
それは低い雲となって、高度を下げて来るのに、届かない。
熟考できないアタマだから、掴むのはムリみたい。
「うーっ」とか、「ふーっ」とか、「あぁーっ」とかのレベルで終わる。

言葉にする端からウソ色になるものってある。
そんな感じかな。

感覚を書き表すと、どこか端っこが外れるか、脚色が入る。 
まっ、この読解力と語彙と表現力のせいでしょうが。 

天童さんの幾つかの本の装丁に、
彫刻家の舟越桂さんの作品が使われている。
とってもいい。とっても好き。

情熱大陸等のTV番組やドキュメンタリーもいくつか見た。
その工程が<作品>って感じがした。

クスノキを使った木彫。目は大理石。
目を作ってはめ込む時、
その過程は手術室の出来事のよう。

計算されつくした作業のようにも見えたし、
ゼロから何かを創り出す技のようにも見えた。

目をね、確か三白眼?か、斜視気味?にすると、
「もの言う」表情が出るみたいなこと言ってた。
遠くを見てる目だ。

暖かさと淋しさとが混在してて、
それが質感となって不思議な表情。

ずっと見つめていたくなる。

私は、絵も、彫刻も人物が好き。
本も映画も、ヒト臭いのが好き。

■へえ、舟越桂/画 、天童荒太/文 で、
あなたが想う本(2000年)』って言うのが出てるんだ。
47点の版画と7つの物語。


【今日の作品】【永遠の仔】
【今日の部員】昨日:モディ★今日:脳腫瘍 ★明日:リリー